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ガーナの議会の歴史

ガーナは1957年3月6日に独立しました。この歴史的な政治闘争は、100年以上にも遡ります。
1850年、当時イギリス領ゴールド・コーストと呼ばれていたガーナは、立法評議会を設置しました。

1916年、立法評議会は9名の正式メンバーと6名のアフリカ人が導入されていました。
1925年にグギスベルク憲法が創設され、立法評議会選挙で16名の正式メンバーと14名の非公式メンバーが議会に導入されましたが、理事会は立法を完全に支配できていませんでした。

1946年の憲法改定により、初めて議会のメンバーの過半数がアフリカ人となりました。

1951年にゴールド・コーストで初めて普遍的な参政権の下で立法評議会の選挙が開催され、84名の立法議会を創設しました。
そのうち38議席が国民によって選出され、37議席が領土議会を代表し、6議席が商業的利益を代表していました。

1954年に新憲法が承認され、2度目の立法評議会の選挙がゴールド・コーストで開催され、104議席が選出されました。
英国政府は植民地の独立を認め、1957年にガーナに改名され、ウェストミンスター憲章をモデルとした新憲法が承認されました。

1960年6月には、女性の議員が10名選出されました。
独立当初のガーナは英国王を立憲君主に頂く英連邦王国でしたが、1960年7月に共和制に移行しました。
初代大統領のクワメ・ンクルマ大統領は債務超過など失政を招き、1966年2月にクーデターにより失脚しました。
政権を掌握した国家解放評議会はンクルマの政策から脱し、1969年に選挙を実施しました。

1979年に軍事クーデターを起こしたジェリー・ローリングス空軍大尉が政権を掌握し、民政移管期間を挟んで1981年に完全な軍政を敷きました。
ローリングスはガーナ経済再建のために世界銀行の構造調整計画を受け入れ、所得格差の拡大と共に、ガーナ経済と政治の安定化を達成しました。
ローリングスは複数政党制を認めた1992年の選挙で大統領に選出され、軍政から民政移管し、政治をボイコットしてきた野党も国政に参加を表明し、国情は安定を迎えました。

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